第74回 テーマ別(11)ラ・ロシュフコー箴言集 ・ 美徳(2)

第74回 テーマ別(11)ラ・ロシュフコー箴言集 ・ 美徳(2)

 皆様こんにちは、本日も当ブログにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。

 本日は、ラ・ロシュフコーの「テーマ別」箴言シリーズ 第72回の続きとして、「美徳」(vertue)をテーマとした箴言の続きをご紹介します。箴言番号は39、40、41、42です。今回も、簡潔なフランス語の文章を通じて「生きる知恵」を学ぶことができます。フランス語文左側の( )内の数字が箴言番号、◎が和訳です。それでは、お楽しみください。

(39)L’intérêt parle toutes sortes de langues, et joue toutes sortes de personnages, même celui de désintéressé.

◎私利私欲はあらゆる種類のことばを語る。そして、私利私欲を持たない人々も含めたあらゆる人々の役を演じる。

(訳注)

・intérêt:①興味、関心、面白さ、重要性、好意 ②利益、得、(複数形で)私利私欲、利息、利子

・sortes:種類、部類 une sorte de~「一種の~」

・jouer:遊ぶ、ゲーム(試合)をする、jouer avec~をもてあそぶ、演奏する、出演する、演じる、上演する、賭ける、気取る、振り回す、伸縮によって歪む

・désintéressé:私利私欲の無い、公平無私な

➡「利害」や「私利私欲」が絡むと、各方面から色々と「甘い」ささやきがあるということでしょう。そして、そのささやきに反応する結果として、それらに無関係な人々をも巻き込んでしまうということだと思います。”self-interest”による公益の実現、とはなかなかならないのでしょう。前後の文脈がありませんので、joueを「演じる」と訳しましたが、「もてあそぶ」と訳しても面白いと思います。

(40)L’intérêt qui aveugle les uns, fait la lumière des autres.

◎利害というものは、ある人々を盲目にさせる一方で、ある人々には光明を作り出すものである。

(訳注)

・aveugle<aveugler:目をくらませる、盲目的にする、理性を失わせる、失明させる、盲目にする、(窓・穴などを)ふさぐ。(※aveugle:形容詞・名詞の意味もある。)

➡欲に目がくらんで盲目的になる人と、そういう人々に「たかって」利益を得る人々がいる、という意味でしょうか。lumière(光明)という言葉の解釈次第だと思います。

(41)Ceux qui s’appliquent trop aux petites choses deviennent incapables des grandes.

◎小事(しょうじ)にこだわり過ぎる人々は、大事(だいじ)に対し無能になる。

(訳注)

・s’appliquent<s’appliquer à~:~に当てはまる、~に専心する、押し当てられる、取り付けられる、くっつく。

・deviennent<devenir:~になる 

・incapable:de~できない、無能な、役に立たない

・grandes:petites chosesに対応するが、chosesが省略されている。

➡これは良く言われることですね。ラ・ロシュフコー自身は身分の高いひとですから、「そのものズバリ」当てはまる場面が多かったと思います。

 一方で、我々が日常生活を行うに際しては、この箴言とは逆に、「小事をおろそかにすると痛い目にあう」「神は細部に宿る」という考え方もあると思います。個人的には、細かいのは苦手なので、この箴言に「一票」です!

(42)Nous n’avons pas assez de force pour suivre toute notre raison.

◎我々は、理性に完全に従うだけの力を持たない。

(訳注)

・assez de+無冠詞名詞~:十分の~、かなりの~

・suivre:~の後についていく、~のあとから来る、~の後をつける、(物が主語で)次に来る、~に従う、~に沿っている(進む)、

➡この箴言もロシュフコーの日々の生活実感から生まれたものなのでしょう。「殿、ご乱心」などという言葉がありますが、人は必ずしも常に理性的に生きられる訳ではありませんね。

 程度問題とは思いますが、「時には感情的になれる」からこそ、人間は魅力的なのだと思います。もちろん、「前向きに」「プラスに」感情的になれるのが理想と思います。

 では逆に、「後ろ向きに」「マイナスに」感情的になる例としてはどんなケースがあるでしょうか?色々あると思いますが、悲観主義はその典型だと思います。ロシュフコーの同時代の代表者としては、パスカルはその代表だと思います。

 次のパスカルの断想(パンセ断想No.267)は、高校時代・浪人時代に惹かれていたものです。類まれなレトリックには今でも惚れ惚れしますが、如何せん、「ペシミスム(悲観主義)に裏打ちされた信仰心」が表れている点は、いかがなものかと思います。私自身の「若気の至り」、反省として。

(267)La dernière démarche de la raison est de reconnîaitre qu’il y a une infinité de choses qui la surpassent ; elle n’est que faible, si elle ne va jusqu’à connîaitre cela. Que si les choses naturelles la surpassent, que dira-t-on des surnaturelles?

◎理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。自然な事物が理性を超えているならば、超自然的な事物については、なんと言ったらいいのだろう。

 本日もお読みいただき、ありがとうございました。

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