皆様 こんにちは、ぱすてーるです。本日も当ブログをお読みいただき、ありがとうございます!
1)フランス語を学ぶきっかけ / 名文を楽しみながら上達:
本日はまず、私がフランス語を学ぼうと思い立ったきっかけをご説明するために、高校現代文の教科書に載っていたパスカルの断想を引用させていただきます。引用直後にフランス語の原文を付し、必要に応じて若干の文法解説も付させていただきます。
初めて授業で以下に引用する文章を読んだ頃は、理科系から文科系への進路変更(いわゆる文転)を決めた頃でした。進路に悶々とする中、漠然とではありますが、パスカルの文章には不思議と惹かれるものを感じていました。「こんな考え方をしていた人がいたんだなー」と。
その後、浪人時代に有り余る読書時間を得て(笑)、三木清の『人生論ノート』を読んでいると、パスカルの引用(「この無限の空間の永遠の沈黙は、私を震撼させる」Le silence éternel de ces espaces infinis m’effraie)に出会いました。思春期に有り勝ちな、漠とした不安を感じる日々。その後、近親者の死を経験し、茫然自失の日々を送る中、いつしか彼のペシミスムと魅力的な表現力の虜になっていました。
人間の営みは全て、自らの悲惨・惨めさからの逃避としての「気晴らし」(divertissement)であると。今思えば、荒唐無稽でさえあるこの考え方に染まり、慰めを得ていたのです。若気の至りの側面もあったように思います。世の中には、もっと、もっと大変な目にあっている方々がいるにもかかわらず。。。
だからこそ今では、パスカルのペシミスムとは完全に決別し、ヴォルテールを見習い、死ぬまで現役で挑戦し続けることを覚悟しています!ペシミスムとは決別しましたが、彼の求道精神や真摯な姿勢、表現力には依然として魅力を感じています。今回の第2回目のブログの目的は、あくまで筆者とフランス語の出会いに関する補足をさせていただきながら、上記のようなパスカルの魅力を原文を通じて味わっていただくことです。
さて、高校時代には知り得なかったのですが、病弱であったパスカルは、『パンセ』において命懸けで「神の存在証明」を試みています。従って、引用させていただく文章の中には「神」という言葉が頻出します。昨日の第1回ブログ<ご挨拶>の通り、筆者自身はほぼ無宗教ですので、本ブログにおいてキリスト教や他の宗教へ皆様を勧誘する意図は微塵もございません。偉大な思想家や作家の「思い」「世界観」の一端をお知らせすることにより、少しでも「生きる知恵」「教養」の引き出しを充実させるお手伝いを出来ればと考えています。
なお、原文冒頭に付した括弧書きの数字は、編集者であるLeon Brunschvicgによる断想番号です。『パンセ』はパスカルの死後、製本されないまま発見されたため、Brunschvicg(他にもLouis Lafumaが編集者として有名)により整理されています。また、引用中の下線部は筆者による注記です。(以下、引用です。)
2)高校時代の教科書からの引用:(◎印が付された和文が引用文、その直後にフランス語の原文、その下に注を付しています)
<引用はじめ>
パスカル『パンセ』 (尚学図書 「高等学校 新選 現代文」p.244~245「西洋の思想」より)
◎人間は明らかに考えるために作られている。それが彼のすべての尊厳、彼のすべての価値である。そして彼のすべての義務は、正しく考えることである。
(146)L’homme est visiblement fait pour penser ; c’est toute sa dignité et tout son merité ; et tout son devoir est de penser comme il faut(注1).
(注1)comme il faut=然るべく。他の部分は全て、シンプルな現在形(est、英語のis)や受動態(est fait、英語直訳は”The human being is made/created”)のみ。フランス語を習い始めた1年目の文法知識で十分理解可能な文章です。
◎ところで、考えの順序は、自分から、また自分の創造主と自分の目的から考え始めることである。
Or(注2) l’ordre de la penseé est de commencer par soi,(注3) et par son auteur et sa fin.
(注2)ところで (注3)自分自身。この文章にも難しい文法は一切ありません。動詞は全て現在形(estはêtreの3人称単数現在形、英語のisに相当。commencerは英語のstart/begin)。parは英語のby。他はAuteur(=創造主)やFin(=目的)など、解釈が分かりそうで分かり辛い単語かもしれません。日常的な解釈では、Auteurは書籍などの「作者」ですし、finは映画の最後のシーン等で出てくる「終わり」(英語のThe End)という意味の方が一般的と思います。なお、sonとsaについては、フランス語の形容詞の勉強にちょうど良いと思います。どちらも英語のhis(彼の)に相当しますが、直後の名詞の「性」に応じて変化しています。即ち、Auteurは男性名詞であるためsonとなり、finは女性名詞であるためsaに変化しています。仏文理解のための参考として英語に直訳しますと、以下のようになると思います。Meanwhile the order of thinking is to start by oneself, and by his creator and his purpose.
◎ところが、世間は何を考えているのだろう。けっしてそういうことではない。そうではなく、踊ること、リュートをひくこと、歌うこと、詩を作ること、輪取り遊びをすること等等、戦うこと、王になることを考えている。王であること、そして人間であることが何であるかは考えずに。
Or à quoi(注4) pense le monde? Jamais à cela(注5) ; mais à danser, à jouer du luth, à chanter, à faire des vers(注6), à courir la bague, etc., à se battre(注7) à se faire roi(注8), sans penser à ce que c’est qu’être roi(注9), et qu’être homme(注10).
(注4)何について(àは英語のthink ofのofに相当するイメージ) (注5)そのこと=自分がどういうものであるかということ、自分の創造主のこと、神によって作られた自分は何を為すべきなのかということ。(注6)faire des vers=英make poems (注7)se battre 殴りあう→戦争する (注8)se faire roi:自らを王にする(再帰代名詞) 強引に英訳すれば、make himself kingとなるでしょうか。なお、「se+動詞」のセットで代名動詞と言います。注21もご参照。(注9)ce que c’est qu’être roi = what it is to be king (注10)注9のce que c’estが省略され、roi(王)がhomme(人間)に置き換わっている。前の文章と同様に、使われている動詞の時制は、現在形と原形だけになっています。
◎理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知るところまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。自然な事物が理性を超えているならば、超自然的な事物については、なんと言ったらいいのだろう。
La dernière démarche de la raison est de reconnîaitre qu’il y a(注11) une infinité de choses qui la(注12) surpassent ; elle n’est que faible(注13), si(注14) elle ne va jusqu’à connîaitre cela(注15). Que(注16) si les choses naturelles la(注17) surpassent, que(注18) dira-t-on des surnaturelles?
(注11)il y a ~:~がある (英語のthere is) (注12)la: raison(理性)を指す (注13)n’est que faible :ne~queは、neとqueで挟まれた部分を限定し「~でしかない」とする表現法。後述の断想347の”L’homme n’est qu’un roseau”を参照。なお、neではなく「n’」となっているのは、neのeとestのeとが母音同士でぶつかり合うため。(注14)si:もし~なら(英語のif)。単純な仮定であり、事実に反する仮定を設定する場合の条件法(=英語の仮定法)ではない。条件法の実例については、下記注24および第3回ブログを参照。(注15)cela:直前の「理性を超えるものが無限にあるということ」を指す。(注16)(注18)感嘆する様子(「なんと」)を表現しているものと思われる。理性を超えるものが自然の中に無限にあるのなら、自然を超えるもの(=創造主?)に対してはなおのこと、理性は無力であろう、と言いたいのだと思われる。(注17)la:注12と同様にraison(理性)を指す。
◎神を感じるのは、心情であって、理性ではない。信仰とはこのようなものである。理性にではなく、心情に感じられる神。
C’est le cœur qui sent Dieu,(注19) et non la raison. Voilà(注20) ce que c’est que la foi, Dieu sensible au cœur, non à la raison.
(注19)c’est~qui:英文法で習う強調構文。It is the heart that feels God。”It is”と”that”を外すと”the heart feels God”となるが、この文章を強調するためにthe heartを”It is” と”that”で挟むんで強調構文を作る。英語のIt isに相当するのがC’est、thatに相当するのがqui。(注20)Voilà~:以上が~である。
◎人間はひと茎の葦に過ぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼を押しつぶすために。宇宙全体が武装するにはおよばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼を押しつぶすにしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢を知っているからである。宇宙は何も知らない。
L’homme n’est qu’un roseau(注19), le plus(注20) faible de la nature; mais c’est un roseau pensant. Il ne faut pas que l’univers entier s’arme(注21) pour l’écraser(注22):une vapeur, une goutte d’eau, suffit pour le(注23) tuer. Mais, quand l’univers l’écraserait(注24①), l’hommes serait(注24②) encore plus noble que ce qui le(注25) tue, puisqu’il(注26) sait qu’il(注27) meurt, et l’avantage que l’univers a sur lui(注28); l’univers n’en sait rien.
(注19)「人間は葦に過ぎない」。ne~queについては注13も参照。neとqueで挟まれた部分を限定する表現。英訳すれば、Human being is nothing but a reed (nothing but~ = ただ~のみ、~にほかならない)(注20)le plus:いわゆる「最上級」の表現法。faible(「弱い」)という形容詞を比較級形にするには直前にplus(「より多く」)を付けるが、更に最上級(「最も多く」)にするためplusの前にleを付ける。なお、la plusではなくle plusとなっているのは、faibleが修飾する名詞が男性名詞のroseauであるため。 もし仮にroseauが女性名詞であったとしたら、la plus faibleとなる。(注21)s’arme:武装する (s’のsはse。直後のarmeのaとseのeが母音同士でぶつかるため、s’となっている。seは再帰代名詞。「自らを武装させる」=武装する。再帰代名詞の例:L’histoire se répète「歴史は自らを繰り返す」。s’armeやse répèteなど、「se+動詞」のセットで代名動詞。(注22~28)l’écraserのle、il、luiは全てl’homme(人間)を指す。(注24①②)quand l’univers l’écraserait, l’hommes serait encore plus noble que ce qui le tue:「écraserait」(押しつぶす)および「serait」(would be~であろう)は共に、いわゆる条件法現在形。事実ではないことを仮定し、「もし~だとしても、・・・であろう」とする表現法。
◎だから、我々の尊厳のすべては、考えることのなかにある。我々はそこから立ち上がらなければならないのであって、我々が満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。
Toute notre dignité consite(注29) donc en la pensée. C’est de là qu’il faut nous reveler(注30) et non de l’espace et de la durée(注31), que nous saurions(注32) remplir. Travaillons(注33) donc à bien penser : Voilà le principe de la morale.
(注29)consite en~:~の中に存在する。(英語のconsist in~) (注30)se reveler de~:~から立ち上がる (注31)espace(空間)やdurée(継続=時間)などのような物理的なものとの取り組みからスタートするのではなく、「自分自身、自分の創造主、そして自分の目的を」「考えること」からスタートすべきであるとの主張と思われる。注3参照。(注32)saurions: savoir (知る) の条件法現在(1人称複数形)。 savoir の条件法現在形の前に否定の ne をつけると、後の部分に不定詞(ここではremplir=満たす)が置かれ、「~できないだろう」の意味になる。(注33)Travaillons:Travailler(働く、勉強する、訓練する)の命令形。英語に直訳するとLet’s try to think wellでしょうか。
<引用おわり>
いかがでしたでしょうか。あの天才数学者・物理学者が「理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある」(断想267)と言い切っています。この姿勢には、パスカル自身の宗教的意図を度外視したとしても、胸を打つものがあります。
しかも、表現されているフランス語は、現代フランス語とほとんど同じです。(日本の江戸時代の文章を、現代日本語を読むのと同じ感覚では読めないことを考えると、驚きを禁じ得ません。)
そして、余りにも有名な「考える葦」(断想347)など、何度読み返してもその繊細な感性と、大胆なレトリック(葦の様に最も弱い人間が、「考える」という行為によって宇宙をも凌ぐこと)に驚嘆せざるを得ません。大袈裟ですが、奇跡的とさえ言える巧みな表現だと思います。数学者・物理学者にして思想家、更には表現力において優れた詩人でさえあると思います。(高等学校の教科書に掲載されるだけのことはあります。)
筆者が敬愛する吉田兼好も、このような大胆な人間観・宇宙観までは持ち得なかったと思います。或いは、筆者の知らない、いにしえの日本の詩人・作家・思想家の中にも、このような壮大な人間観・宇宙観を持っていた人がいるのかもしれません(仏教思想家など)。
しかしながら、現代の我々とほぼ同じ文法・表現を通じて、そのような人間観・世界観を我々に伝えてくれる日本の詩人や思想家を、残念ながら知りません。
以上、長くなってしましましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。