第40回 テーマ別(2)ラ・ロシュフコー箴言集より

第40回 テーマ別(2) ラ・ロシュフコー箴言集より

 皆様こんちには、ぱすてーるです。本日もお読みいただき、ありがとうございます。

 本日は、第38回からお届けしております「テーマ別」ラ・ロシュフコー箴言集から、Orgueil(傲慢・高慢・思い上がり)に関するものを3つ、ご紹介させていただきます。

1)高慢と虚栄:

 次の箴言(33)は、人間が持つ高慢さ(傲慢)と虚栄心が比較されていて、面白いです。どちらの方が、より罪深いでしょうか。。。

(33)L’orgueil se dédommage toujours et ne perd rien lors même qu’il renonce à la vanité.

◎直訳:高慢はいつも自らに対し弁済する。そして、たとえ虚栄を放棄する場合でさえ何も失うものはない。

二宮フサ氏訳:傲慢は何があろうと必ずどこかで元を取る。虚栄を捨てる時さえ、少しも損をしないで済ませる。

(訳注)

・orgueil:(男性名詞)傲慢・高慢・思い上がり。

・dédommager:(人に)損害の賠償をする、弁償する、de~に報いる。se dédommager(代名動詞)「自らに弁償する」

・lors même que:(直説法と共に)~の時でも (条件法と共に)たとえ~としても

・renoncer à:~を諦める、放棄する。男性名詞のorgueilがrenoncerの主語となっています。

 上記の私の直訳は、フランス語の文法理解のためには良いとしても、日本語の「読み物」として読む場合には、正直ちょっと難ありと思います。二宮フサ氏の翻訳(岩波文庫)は、本当に分かり易くて助かります。

 ラ・ロシュフコーによれば、高慢は、虚栄よりも更にたちが悪いものなのですね。考えてみれば、虚栄というのは自ら積極的に自分を誇示するものではないのに対して、「高慢」や「傲慢」は、「虚栄」よりも積極的に他者へ働きかけるものですから、(33)のような箴言が生まれるのだと思います。

 renoncerの主語ilはorgueilですから「高慢が虚栄を放棄する」、つまり虚栄は高慢によって放棄される立場ですから、高慢は虚栄よりも罪深い、あるいは抜け目ないということなのだと思います。

2)自分の高慢・他人の高慢:

 次の箴言(34)は、我々が自ら有する高慢さと、他人のそれとを比べているものです。あっぱれです。更には、フランス語文法の条件法現在(現在の事実に反する仮定)の学習に最適です。

(34)Si nous n’avions point d’orgueil, nous ne nous plaindrions pas de celui des autres.

◎もし我々が高慢さを有していないのだとしたら、他人の高慢さを嘆くことはないだろう。

(訳注)

・avions:avoirの半過去(2人称複数)

・ne nous plaindrions pas de ~:se plaindre de~の苦痛を訴える、不平を言う(plaindre「哀れむ」「同情する」の代名動詞。plaindrionsは条件法現在形。「もし~ならば、・・・であろう」。この箴言(34)はフランス語文法の条件法現在(現在の事実に反する仮定)の学習に最適です。いわゆる英語の仮定法です。ここでは、「もし、我々が高慢さを有していなければ」ということが事実に反しているので、事実としては「我々は高慢さを有している」ということになります。巧みなレトリックですね。

・celui:orgueil(男性名詞)を受けている。

 箴言(34)も耳の痛い話ですね。「人の振り見て我が振り直せ」ということわざを思い出させる名言だと思います。「言うは易く」ですが、他人の高慢さや傲慢さが目に付く時には、この箴言を思い出そうと、、、しても、、、中々難しいでしょうか。。。

3)高慢さの表現方法(現れ方):

(35)L’orgueil est égal chez tous les hommes. Il n’y a de différence qu’aux moyens et à la manière de le mettre au jour.

◎高慢さはあらゆる人間に共通してあるものだ。違うのは、高慢さを表現する手段であり、それを明るみに出す方法に関してだけである。

(訳注)

・Il n’y a de différence qu’:il n’y a que~しかない(ne~queは限定表現)。 

・le:orgueil(男性名詞)

・ mettre ~ au jour:~を明るみに出す、発掘する。「~」に相当するorgueilをleで受けてle mettre au jourとしている。

 この箴言(35)もまた、耳の痛い話です。箴言(34)の別表現と言っても良いでしょう。「高慢さは誰もが有している」(箴言34)、だから「違いがあるとすればその現れ方だけ」(箴言35)という訳ですね。

 (34)も(35)も確かに名言ですが、もしこれらを生身の人間から自分に語り掛けられたら、冷静に受け止めることはできるでしょうか。なかなか難しいのではないかと思います。でも300年以上も前の人から語り掛けられると、不思議と納得してしまいます。時代が変わっても、人はそう変わるものでは無いことの一例かもしれません。

 本日もお読みいただき、ありがとうございました。

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