第3回 フランス語上達の秘訣 ~Jean GIONO “La chasse au bonheur” (ジャン・ジオノ / 幸福の追求) ~(足るを知れ、とは言うけれど、、、)
皆様、こんにちは。ぱすてーるです。本日も当ブログをお読みいただき、ありがとうございます。
昨日の第2回ブログはいかがでしたでしょうか。私がフランス語を志したきっかけを説明するためとはいえ、パスカルですとちょっと内容が重かったと思います。
1) ジャン・ジオノ:
本日は、もう少し気軽に楽しんでいただける、素敵な文章を紹介したいと思います。『木を植えた男』(L’Homme Qui Plantait Des Arbres)でご存じの方も多いと思いますが、Jean GIONO(1895年3月30日 – 1970年10月8日)という作家の作品La chasse au bonheur(幸福の追求)の一部を紹介させていただきます。
GIONOはプロヴァンス地方マノスクで生まれ、16歳で銀行員として働き始め、1914年第一次世界大戦に出征。第二次世界大戦では徴兵反対運動を行い、1939年に逮捕されています。
前回のパスカルについても言えることですが、こういうちょっと変わった経歴の方の作品であることを知っておくことは、作品に「おぼれて」しまわないためにも必要だと思います(笑)。作品の全てを無批判に受け入れるのではなく、表現の美しさや巧みさを楽しみつつ、何がしかの「ためになる部分」「役立つ考え方」を「いいとこ取り」すれば良いのだと思います。それでは、お楽しみください。
2) 足るを知れ(とはいうけれど、、、):
<引用はじめ> (◎を付した和文が引用文です。続く原文には、必要に応じ文法解説を付します。なお、引用文は筆者が原文を訳したものです。)
◎「もし私がこれや、あれを持っていたなら、もっと幸せになれるのになあ」という話をよく耳にします。そして我々は、こう信じる習慣があります。「幸福というものは、未来の中にあり、例外的な条件下でしか実現しないのだ」と。
On entend souvent dire: <>, et l’on prend l’habitude de croire que le bonheur réside dans le future et ne vit qu’en conditions exceptionnelles.
(注1)Si j’ai ceci, je serais heureux:いわゆる条件法現在。英語の仮定法のように、「現在の事実に反する仮定」に基づく表現をする場合に使う表現法。「Si + 直説法半過去」(例:Si j’étais jeune:もし私が若かったらら)+「条件法現在」(例:je irais n’importe où:どんな所にでも行くのになあ)
◎ (ところが)幸福とは現在の中にあり、日々の日常の中にあるものなのです。
Le bonheur habite(注2) le présent, et le plus quotidien des présents.
(注2) habite le présent:「現在の中に住む」→「現在の中にある」
◎ (本当は)こう言うべきなのです。「私にはこれがある、あれも持っている、だから私は幸せなのだ」と。そして更に、こうも言うべきなのです。「これが今一つ、あれも今一つ難点ではあるけれど、私は幸せだ」
Il faut dire : <> Et même(注3) dire : <>
(注3)même:~であっても、そうであっても (注4)Malgré:~にもかかわらず
<引用おわり>
いかがでしたしょうか。確かにそうですね、目を閉じて、静かに、いま生きていること、与えられていること(健康・家族)に思いを馳せれば、じわーっ、と幸せを感じることができる部分もあると思います。
ここにもフランスのモラリスト文学の伝統が息づいていると思います。ジオノは、「感覚を研ぎ澄ませば、身の周りの至る所に、幸福の薄いかけら(minces lamelles)を見出せる」として、次のような例示をしています。
群衆、特定の個人の表情、複数の表情、足取り、頭、片手、両手、孤独、一本の木、木々、光、夜、階段、廊下、足音、人気のない通り、川、平野、水、空、大地、火、海、心臓の鼓動、雨、風、太陽、人々の歌声、寒さ、厚さ、飲む、食べる、眠る、愛する、など。
ただし、ここで注意が必要と思うことがあります。「いまの自分は十分に恵まれていて幸せだ」と感じることは大切ですが、そのせいで「現在の家計の経済状況」を改善する行動を制限してはいけない、と思うのです。学生時代であれば、GIONOの牧歌的な、散文詩のような文章に感動し、幸せな気分にひたるだけで終わっていたと思います。
GIONOが「幸福の追求」で述べていることは、『木を植えた人』に描かれているような自給自足生活を送る人で無い限り、なかなか達することはできないと感じます。言い換えますと、GIONOのこの姿勢は、以下3点の日本の現状に照らせば、「条件付き賛成」と言わざるを得ないと思います。
①技術革新:AI(Artificial Intelligence)やRPA(Robotic Process Automation)等の導入により、従来の職業能力だけでは勤労収入を確保するのが難しくなりつつあること。(業界や企業規模にもよる)
②貧富の差:上記①等の影響や、就業形態の差(有期雇用者の増加)の影響により、貧富の差が広がりつつあること。
③人的リスク:国や自治体等の為政者や、会社や各種団体などの各個人が所属する組織には、常に組織固有のリスク(不正、不作為、ハラスメント等)が潜むこと。
以上より、もし私たちが上記①~③の様な事情で行き詰まる場合には、技術革新による影響を逆手に取る必要があると思います。
つまり、様々な技術革新(特にインターネット)を「脅威」とだけ捉えるのではなく、「恩恵」として捉え、自らの人生を好転させる必要があると思います。その際に、GIONOの «J’ai ceci, j’ai cela, je suis heureux. » Et même dire : « Malgré ceci et malgré cela, je suis heureux. »という姿勢は、リスクを取り過ぎないためのブレーキのような役割を果たすのではないか、と思うのです。
GIONOのこの姿勢は、実は、古くから言われてきた「足るを知る」ことの彼なりの表現だと思います。
3) バートランド・ラッセル:
少し話が逸れてしまい恐縮ですが、「足るを知る」で思い出されるのは、高校卒業後、予備校の英語のテキストに載っていた次の文章です。バートランド・ラッセル(※)の『幸福論』からの抜粋です。
(※)Bertrand Arthur William Russell / 1872年5月18日 – 1970年2月2日。没年はジオノと同じ1970年。イギリスの哲学者、論理学者、数学者、社会批評家、政治活動家。1950年にノーベル文学賞を受賞。
<引用はじめ>
The golden mean is an uninteresting doctrine, and I can remember when I was young rejecting it with scorn and indignation, since in those days it was heroic extremes that I admired. Truth is not always interesting, and many things are believed because they are interesting; although, in fact, there is little other evidence in their favour. The golden mean is a case in point: it may be an uninteresting doctrine, but in a very great many matters it is a true one.
中庸の徳
中庸(ちゅうよう)(中庸の徳)は、面白くない教義(信条)であり、私は、若い時には「中庸」を軽蔑と憤りをもって退けたことを覚えている。なぜかというと、その当時、私が賛美したのは「英雄的な極端」(過激さ)であったからである。だが、真理はいつも面白いわけでないけれども、多くの事柄が(--実際には、面白いという以外に有利な証拠はほとんどないが--)面白いという理由(だけ)で信じられている。「中庸」が一つの適例(良い例)である。「中庸」は、面白くない教義かもしれないが、実に多くの事柄において正しい教義である。(出典: ラッセル『幸福論』第16章「努力と諦め」
<引用おわり>
自身の経済状態を改善するために、どんな活動をするにせよ、ジオノやラッセルの考え方も参照しながら、地に足をつけていきたいものですね。
本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。