第13回 ほれて上達 フランス語 ~ ほれる場合の注意点 ~
皆様こんにちは、ぱすてーるです。本日もお読みいただき、ありがとうございます。
1)ほれると上達 フランス語:
今回のブログは、少し変わったタイトルとさせていただきました。「ほれる場合の注意点」? ほれる場合に注意も、へったくれも無いではないか、と思われる方も多いと思います。
その通りだと思います。僕自身、学生時代から社会人になりたての頃は、「無条件で」「盲目的に」フランス語に惚れていた本人でした。
僕の場合、フランス語に「惚れる」前に「すがって」いたという特殊事情もあったとは思います(その経緯については、第一回ブログの自己紹介もご覧ください。)
フランス語の小説や詩、映画などの「フランス文化全般」を好む方々の中には、経済的成功などは二の次、あるいは別問題、とにかくフランス語に触れてさえいられれば満足、という方もおられるのではないかと思います。
でも、そこは「時の流れ」、つまり年の功です。この考えの甘さを、ひょんなことから悟らされたのです。それはちょうど、フランス語にどっぷり浸かった社会人生活が10年経過し、新たな道を模索していた頃のことです。
2)国連への憧れと大学院入学:
仕事で渡航する海外は、途上国ばかりでしたから、そこには必ずと言って良いほど、国際連合(国連)の何らかの機関から派遣、または駐在している職員がいます。出張で滞在するホテルや外出先で彼らと接する機会も時々あり、いつしか国際公務員に憧れるようになりました。
ほれたフランス語を活用して国連職員になるため、社会人大学院に入学(外国語科目として受験)したのですが、そこで素晴らしい教授との出会いがありました。
私の指導教官ではなかったのですが、この教授は経済学博士号をお持ちでありながら、経済学ではなく社会思想を指導科目としている方でした。
ご専門はハイエク(20世紀を代表する自由主義の思想家。1974年ノーベル経済学賞受賞。何かと物議をかもしたミルトン・フリードマンにも影響を与えた思想家)でした。私が修士1年生の時の研究科長であられました。
この教授の授業は、古代ギリシア時代から現代までの偉大な思想の歩みを通年で講義いただくものでした。ところが授業では一切、メモのようなものを持たれずに、文字通り「立て板に水」の如く、90分間も話し続けられ、板書されるのです。もちろん、事前の準備が徹底していたことや、長年のご経験、そしてご本人の情熱もあったのだと思います。
3)大学院での学び ~フランス語にほれるのは良いけれど~
ある日、この教授が授業でこうおっしゃったのです。「皆さん、当研究科では沢山の書物を読まれることと思います。その中で、たった一つ読むべき書物を挙げよ、と言われれば、迷うことなくヘーゲルの『法の哲学』を推薦します。」
初めて耳にした時は、全く意味が分かりませんでした。「そこまで言うのか!?」「そんなにすごい本なのか?」と思いました。でも、そこは素直に、読んでみました。ヘーゲルと言えば、学部時代に一般教養の授業で苦労した思い出や、『精神現象学』などの難解な印象しかなかったので、半ば恐る恐る手に取ってみたのです。
ところが意外に、『法の哲学』は読み易かったのです。そして、教授がこの本を強く推奨する理由が、ヘーゲルの市民社会論に関する下記の記述にその根拠があることが分かりました。以下、引用させていただきます。
<引用はじめ>
市民社会は三つの契機を含む。
A 個々人の労働によって、また他のすべての人々の労働と欲求の満足とによって、欲求を媒介し、個々人を満足させること – – – 欲求の体系
B この体系に含まれている自由という普遍的なものの現実性、すなわち所有を司法活動によって保護すること。
C 右の両体系の中に残存している偶然性に対してあらかじめ配慮すること、そして福祉行政と職業団体によって、特殊的利益を一つの共同体的なものとして配慮し管理すること。
(ヘーゲル『法の哲学』藤野渉・赤沢正敏訳、中央公論社1978年pp.327、413、421)
<引用おわり>
西欧の市民社会論と、日本の社会とを同じ土俵で論じることは注意しなければいけないとは思います(この論点に関しましては、大学院時代の指導教官に教えていただいた、山本七平の『日本資本主義の精神』が必読です)。それを踏まえた上で、上記のヘーゲルの市民社会論を素直に受け止めて、世の中の在り方を理解する一つのツールと捉えようと思ったのです。
すると、世の中が「欲求」というもので成り立っており(上記A)、そしてこの「欲求の体系」の中に含まれる「自由という普遍的なもの」を「法律によって保護すること」(上記B)との考え方が、時代を超えて非常に納得感をもって理解できたのです。
そして、これこそ現代の通奏低音とも言える「経済的自由主義」の一つの根拠になっていることを思い知らされたのでした。
経済的自由主義は、様々な制約を受けつつも(身近な例ではコロナ禍で繰り返し聞かれる「感染予防と経済の両立」などもその例)、本当に大切な考え方だとあらためて思います。
この考え方を知った後に、それまでの私のフランス語に対する「無条件の」「片思い」のような、青臭い思いは、良い意味で修正を強いられたのでした。
つまり、フランス語を「経済的な成功」や「実用」と切り離して考えることは、市民社会の大原則に背を向ける態度であると考えるに至ったのです。今となっては恥ずかしい限り、若気の至りです。
以上、少し長くなってしまいました。上記事情から、本ブログの副題を「ほれる場合の注意点」とさせていただいた次第です。
フランス語に「惚れる」ことは上達の近道であるのは確かだと思います。けれども、惚れ過ぎて世の中に背を向けたり、経済的成功から目を背けたりするのはいただけないと思います。
無理やり自分のペンネームに紐付けさせていただきますと、「この世」から背を向けたパスカルではなく、「この世」とガチンコで向き合って経済的成功も達成したヴォルテールのような生き方にあこがれる次第です。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。