第24回 アヴィニョンの思い出

第24回  アヴィニョンの思い出

皆様こんにちは、ぱすてーるです。今回もお読みいただき、ありがとうございます。

 今回は少し趣向を変えて、パリ以外で私が一番好きな都市であるアビニョンについて少し触れさせていただきたいと思います。初めてパリを訪れた際の記憶の断片も「前座」としてお見せしたいと思います。

<初のパリ>

 私が初めてフランスを訪問したのは、学生時代、まだ欧州に共通通貨ユーロが導入される以前でした。旅の目的は、パスカルの生誕地クレルモン・フェランを訪問すること。未だパスカルの束縛から解放されずに悶々としていた頃ですから、当然、一人旅です。

 シャルル・ドゴール空港からバスまたは電車(RER)で何とかパリ市内に入り(記憶が曖昧です)、パリ・ソルボンヌ大学があるサンミッシェル通り沿いの、格安ホテルの屋根裏部屋のようなところに飛び込みで数日滞在したのを覚えています。

 チェックインを済ませ、すぐ近くのリュクサンブール公園のベンチに行きました。冷たい小雨の降る2月末で、「遂に来た」との熱い思いがこみ上げてきたのを思い出します。それはさながら、萩原朔太郎が果たせなかったフランス訪問(「ふらんすに行きたしと思えど、、、」)を「俺は果たしたぞ!」と言わんばかりのものでした。森有正の『遙かなノートルダム』の中で哲学的に追求された「経験」なるものを、訳も分からず勝手に咀嚼していました。

<ユースホステルをハシゴ、老夫婦のアパートへ民泊>

 貧乏旅行ですから、格安ホテルに数日滞在した後は、更に安いユースホステルを渡り歩いていました。お金は無くとも時間は有り余るほどありましたので、パリの街は東京などに比べ小さいこともあり、端から端まで平気で歩き回っていた記憶があります。

 ユースホステルは破格である半面、滞在期間が限られるため(確か最大3~5日ほど)、北駅で自宅を外国人旅行者に貸し出す「民泊」チラシを配っていた老夫婦のアパルトマンに10日ほど滞在したこともありました。ユースホステルよりも割安ですから、ここを起点に宿泊費を抑えつつ、パリから日帰り可能な観光地(ナント、ルーアン、ル・アーブル、シャルルヴィル=ランボー生地、シャルトル等)も訪問しました。老夫婦から手渡されたアパルトマン住所の最寄り駅は、メトロ4号線のChâteau Rouge。パリ市内でも北側、独特の雰囲気の町で、アフリカ系の方々も多い地域でした。社会人になってからアフリカ系の方々と接する機会が格段に増えましたが、その際に余り違和感を感じずに済んだのは、この時Château Rouge経験があったからなのかもしれません。

 アパルトマン入口の鍵の解除コードを押し入室すると、そこには確か陽気な3カ国の学生が滞在していました。1人はオランダ人男性。長身で物理学を専攻しており、英語は勿論、フランス語も強い訛りがあるにせよ問題なく話していました。さすが伝統的に貿易立国の国だけあって、語学のセンスは抜群だと感じた記憶があります。

 2人目はオーストラリア出身の小柄な女性。何かビジネスを学びに来ていたと記憶します。愛想が良かったのは記憶していますが、私が自分で作ったパスタで日本の話をネタに盛り上がったことを除き、残念ながら余り思い出はありません。特に気になるような方ではなかったのだでしょうか(笑)。。。

 3人目はイスラエル出身の学生。と言っても兵役も経験した30代の人でした。「俺は兵役時代に手りゅう弾を投げて〇〇〇人を殺した経験がある」と自慢顔で話していたことが強く印象に残っています。フランス語は話せず、ちょっとズッコケな感じ、きつい訛りの英語でやや虚言癖がありそうな感じでした。「パリにいる親類を訪ねてきた」と話していましたが、親類がいるならなぜこんな民泊アパートに泊まっているのか?今思えば不思議な話ですね。でも、そんなことよりも、先ほどの手りゅう弾の話や、さすがユダヤ人だけあって世界中に親類がいるのだなー、と納得した記憶があります。

 アパートを貸して下さった老夫婦の言葉が今も耳に残っています(と言いますか、このブログを書いていたら、ふと思い出しました!)「フランス語上達」のためのブログにぴったりの諺です。自分がフランス語を勉強していることを告げると、老夫婦はそろってニコニコしながら、”Petit à petit, l’oiseau fait son niz”(鳥は少しずつ巣を作る→小さな努力の積み重ねこそ成功のもと→ちりも積もれば山となる)と声を掛けて下さいました。何だか昔の自分自身と夢の中で再会しているような気持になってきました。。。

<アビニョンへ>

さて、お待たせしました。前座が長くなってしまいましたが、いよいよアビニョンの話です。約1ヶ月間の貧乏旅行ですから、「フランス・ユーレイルパス」(ユーレイルパスのフランス限定版。期間を区切って普通列車やTGV=フランス版新幹線を破格の値段で乗車可)を有効活用し、フランス各地を回りました。パリ以外で初めて訪問したのがアヴィニョンです。世界史で習う、ローマ教皇が一時期「囚われていた」屋敷=教皇庁跡がある美しい町です。

 直前まで滞在していた2月のパリは、寒く曇天続きであり、正にボードレールの詩(第6回ブログで紹介した””L’ENNEMI”=”敵”や、”RECUEILLEMENT”=”沈思”など)で繰り返される”Douleur”(苦悩)という単語で表現するにふさわしい憂鬱(SPLEEN)に苦しめられていました。パスカルの数々のペシミスティックな断想も時折頭をよぎり、精神的にかなり参っていた記憶があります。

 そんな中、初めてTGVに乗り、曇天のパリを逃げ出すように向かったのが、南仏の太陽が燦燦と輝くアヴィニョンだったのです(今はTGV専用駅がありますが、当時は普通列車もTGVも停車駅は同じ駅でした)。ここからニースやカンヌにも日帰り旅行をしました。宿泊先は駅から徒歩5分ほどの、小さな家族経営のホテルでした。

ホテル名はLE SPLENDID。オーナーのご主人が、ピンク色の壁紙を貼る姿、その脇で戯れる愛らしい少女、5-6才なのにもう厚いレンズの眼鏡をかけていました。そのため愛らしい大きな瞳が更にクローズアップされていました。朝食は香りの良いクロワッサンに手作りジャム。。。曇天の憂鬱なパリとはうって変わった南仏の太陽に、どれほど救われた気がしたことでしょう。ついでに申し上げると、パリ滞在中は風邪をひいており、療養のためと思いほぼ毎日オレンジジュースを飲んでいました。そのおかげなのか、南仏の太陽のおかげなのかはわかりませんが、アヴィニョンに到着すると風邪はいつの間にか治っていました。

 約10年後に新婚旅行で訪問した際にも同じホテルは残っていましたが、経営者は変わってしまっていました。数年前に息子も連れて家族3人で訪問した際には、もう、その名前のホテルはなくなっていました。(もし、同じホテルに泊まったことがある読者の方がいらっしゃれば、お知らせいただけると嬉しいです。)

<ガール橋>

 アビニョン駅からバスで1時間ほど乗り、バス停から道路沿い(歩道なし)を15分ほど歩くと、ローマの水道PONT DU GARD(ガール橋、現地の発音では「ポン・デュ・ギャール」)が視界に飛び込んできました。そうです、世界史の教科書等でよく目にするあのローマの水道そのものが目の前に突如として出現するのです。その威光たるや!!! (写真を掲載できず申し訳ありませんが、ネットで容易に検索可能です。)雄大にして流麗。大きく、美しい。ローマ人の土木工事技術の高さを思い知らされます。建設年はなんと西暦50年!

 先ほどWikipediaで調べて初めて知ったのですが、ガール橋は19世紀にナポレオン3世の命令で改修されているそうです。また、この驚異的な光景をうたいあげた作家・芸術家・考古学者は数知れず、第21回ブログで取り上げさせていただいた『社会契約論』のルソーも、この巨大な橋を前にしたときの驚きを次のように語っているそうです(Wikipediaより)。

 「この3層からなる素晴らしい建造物の上を歩き回ったが、敬意からほとんど足を踏めないほどであった。自分をまったく卑小なものと思いながらも、何か魂を高揚させてくれるものを感じて、なぜローマ人に生まれなかったのかとつぶやいていたのだった。」(ミシュラン・グリーンガイド プロヴァンス(南フランス) フランスミシュランタイヤ社 1991年6月1日 P167)

 今は厳しくアクセス制限されており、ツアーガイド付きでないと橋のてっぺんは歩けませんが、私が訪問した際にはフリーアクセスでした。至る所に刻まれている落書きの「日付」が半端ではありません。1800年代のものはザラ、1700年代の落書きも至る所にありました。

 現在は「いかにも観光地」として開発されてしまい、近くにショップや駐車場なども充実しており、便利さの裏返しで或る意味「興ざめ」ですが、初めて訪問した時には「生の遺跡」という感じがまだ残っていました。その興ざめはあるものの、橋の下を流れる川の流れは恐らくローマ時代から変わっていないのだと思います。数年前の夏に家族3人で訪問した際は、橋の下で老若男女が水泳を楽しんでいました。いえ、水泳というよりは水遊びですね。5mくらいある岩の上から飛び込んだり、ゴムボートに乗り戯れたり。。。水着をホテルに置き忘れていたため、いてもたってもいられず、ズボンの裾をまくって足だけは浸して帰りました。メダカのような小さな川魚が泳いでいました。

 初めてガール橋を訪問した時の話に戻ります。橋からの帰路は、またバス停まで徒歩で向かうのですが、何と、途中で拉致されてしまいました(笑)!即ち、いかにもバックパッカー姿で道路脇を歩いていると、1台の車がクラクションを鳴らして近づいて来るではないですか。何度もクラクションを鳴らされ、「こいつはヤバイ展開になったぞ」とハラハラしながら無視し続けていると、ついに運転席の窓から声を掛けられ万事休す、、、と思いきや、「Vous êtes timide!」(あなたは臆病ね)と笑いながら話しかけられたのです。何のことはない、上品なご婦人でした。何年か前にご主人(ドイツ人の医師)を亡くされ独り暮らしをされているそうです。拉致ならぬヒッチハイク「された」形ですが、アビニョン駅まで送っていただく途中、他愛もない話をしていたのだと思います。ガール橋の鮮烈な思い出と入り混じってしまい、どんな話をしたのかは思い出せません(当時の日記には、もしかしたら何か会話の内容の手がかりが残っているかもしれません。)

以上、本日は私の思い出話にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

ブログを執筆しているうちに、私の拙い、しかし確実にアイデンティティを形成している「経験」が沸々と蘇って参りました。是非、皆様の貴重な旅行や思い出につきましても別の機会にお知らせいただければ幸いです。

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