第8回 Arthur RIMBAUD (アルチュール・ランボー)

第8回 Arthur RIMBAUD  “CHANSON DE LA PLUS HAUTE TOUR” (一番高い塔の歌)

皆様こんにちは、ぱすてーるです。本日もお読みいただき、ありがとうございます。

前回の第7回では、ヴェルレーヌの愛らしい詩を紹介させていただきました。ヴェルレーヌと言えば、同じく象徴派詩人として整理されるランボーとの関わりが語られることが多いと思います。ちょうど、絵画の世界で、ゴッホとゴーギャンの関係が語られることに似たイメージがあると思います。

正直、二人の関係についての様々な逸話を紹介したり、意見を述べたりすることは、このブログの目的ではありません。美しいフランス語で書かれ、且つ、生きる知恵や勇気、時には慰めを与えてくれる「作品そのもの」を皆様と一緒に味わうことが目的です。言わば、偉大な詩人たちが、時を超え、「私達の代わりに悩んで下さった、または喜びを表現して下さった」証を、「鑑賞させていただく」という姿勢で接したいと考えています。

今回ご紹介するのは、「一番高い塔の歌」(原題:CHANSON DE LA PLUS HAUTE TOUR)という詩です。ランボーの名を世界に知らしめた重厚な100行詩”LE BATEAU IVRE”(酔いどれ船)に比べると、正直、拍子抜けするくらい「元気が無い」と感じられるかもしれません。確かにそうだと思います。

実際、私自身も、そう思っていました。そうであるからこそ、近親者の死に茫然自失となった学生時代に、悶々としながら「慰め」を求めて良く読んでいました。ランボーは「早熟の天才」ですし、今回ご紹介する作品以外の作品には、正直なところ近寄りがたい雰囲気と難解さを感じていました。実際、ボードレールやヴェルレーヌに惚れるほどではありませんでした。

ところが、不思議なことに、この詩だけは別でした。「釘付けになる」という表現は大袈裟過ぎるかもしれませんが、最初の6行には文字通り圧倒されました。「正に、日々悶々として今後歩むべき道を見出せない自分、死すべき運命を定められた人間の虚しさを代弁してくれているではないか!」と真面目に思いつつ、鑑賞していたのです。ランボーがこの詩で触れている彼の繊細さ(délicatesse:自分の人生を台無しにした理由としての繊細さ)を、ちょうどパスカルが繰り返し述べる「人間の弱さ」(”Ce qui m’étonne le plus est de voir que tout le monde n’est pas éonné de sa faiblesse”「私が一番驚くことは、人間が自らの弱さに驚かないということである」パンセ断想374)に勝手に重ねて理解していたのです。今思えば、「若気の至り」で恥ずかしい次第ですが、それほど、当時の私にとっては強い吸引力をもつ詩だったのです。ランボーとヴェルレーヌとの関係、或いは、日本における中原中也と小林秀雄との関係など、この詩にまつわる一切の付帯情報を削ぎ落とし、純粋に、独立した詩歌としてこの詩を鑑賞したとしても、十分に魅力的な詩になっていると思います。

第1回ブログの自己紹介に記載させていただきました通り、今では、ペシミスムに浸ることは断固として拒絶しています。むしろ真逆で、与えられた命に感謝し、それを存分に活かし、楽しむべきと考えています。けれども、人生のある時点で(人によって様々と思います)、諸般の事情により、悲しみに浸り切りたい時には、この詩が一つの慰めを与えてくれることと思います。意気消沈する時には、美しい音楽の鑑賞や、体を動かす等の気晴らし法もあると思いますが、ランボーのこの詩を読むというのも一つの選択肢になり得るのでは、と考えています。

以下では、全36行の詩の中から、最初と最後に繰り返される6行を紹介します。

<引用はじめ>

Chanson de la plus haute tour (Arthur Rimbaud)

Oisive jeunesse (A)         どっちつかずの青春時代。

A tout asservie(注1),(B)           何に対しても隷属的な姿勢だった。

Par délicatesse (A)         繊細さのせいで、人生を棒に振ってしまった。

J’ai perdu(注2) ma vie.(B)

Ah ! Que le temps vienne(注3) (C)       ああ、心が高揚する時がやって来ないことか!

(注4) les coeurs s’éprennent.(注5) (C)

(注1)asservi à ~: à~に隷属した(形容詞)。動詞asservir「隷属させる」が変化。押韻のため語順が入れ替わっているが、元々の語順は”jeunesse asservie à tout” (全てに隷属した青春時代)。女性名詞であるjeunesseを修飾するため、asserviにeが付いている。なお、括弧内の大文字アルファベットの通り、押韻はABABCCとなっている。(注2)J’ai perdu:perdre(失う)の複合過去。(注3)venir(来る)の接続法現在形。「Je souhaite」が省略されて 「que」で始まっている、とも考えられます。「~となりますように」という願望や祈願を表す場合には、接続法を使います。(注4)Où:temps(時、時代)を修飾する関係代名詞。英語のwhenやwhereに相当。先行詞が場所の場合は英語のwhere、先行詞が時を表す場合には英語のwhenに相当。(注5) s’éprennent:s’éprendre de~ (代名動詞)~に夢中になる。

<引用おわり>

いかがでしたでしょうか。わずか6行ですが、非常に強いインパクトを持っていると思います。「若さ」ゆえの「青臭さ」は否定できないとは思いますが、それでも、何十年と時が流れても脳に焼き付いている詩です。

本日もお読みいただき、ありがとうございました。

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